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早暁の子(黄金の太陽1回目)

テーマ:ライトノベル - ジャンル:小説・文学

破鐘のような大声を甲板に響かせて、頬髭をたくわえた熊と見まがう大男が剣を振りかざす。
斬撃の一閃ごとに、血飛沫が甲板に雨と降り、叫びを上げて敵はのけぞった。
「イェーラ!」
大男に呼ばれたのは、赤毛の大女。
「おうよ!」
女にあるまじき上背の赤毛は、倒れる敵の背中に足をかけ、めり込んだ剣を引き抜いた。
「王子さんと先に行け!」
大男の剣が、船縁のロープを3本まとめて断ち切る。
舷側に固定されていた小舟が、波間にざぶりと落下した。
「嫌だ!」
答えたのは赤毛ではない。
女と背中合わせに立ち、剣を振るう金髪の少年だった。
「いいから行け! 部が悪い!」
「嫌だ!」
国王の密命を受け、少年を港に送り届けるべく、商船に偽装した小型船は
水夫や漕ぎ手まで合わせても200人程度だ。
対して襲撃者は中型の海賊船であり、戦力の違いは明らかだった。
襲っても実入りの少ない小型船に対し、海賊たちは火矢を使わず、船ごと奪うべく乗り込んでくる。
またたく間に白兵戦が始まった。
そんな状況で、仲間を置いて先に逃げられるはずもない。
たとえ王命でも、少年に逃げる気はなかった。
「イェーラ! 早く連れて行け!」
言いながら、大男は少年を片手で船縁に吊り上げると、
「放せイングス!」
海中へ投げ落とした。
そうなれば赤毛も後を追うしかない。
船縁に上がり、足元に迫る敵をなぎ払って振り返る。
「死ぬなよ」
大男は片頬を歪めて不敵に笑った。
「誰に言ってやがる」

海上では、先に小舟に上がっていた少年が、飛び込んできた赤毛を引き上げた。
「行くぞ!」
赤毛が楷をつかもうとすると、少年が阻止する。
「嫌だ、この状況で逃げられるか!」
「ダメだ、よこせ!」
赤毛は少年の腹を蹴り飛ばし、猛スピードで漕ぎ始めた。
が、まもなく敵の海賊船から火が上がる。
「消火に失敗したのか」
身を起こし、少年は海賊船をにらんだ。
「ああ、獲物に集中しすぎたな」
「あれは、ベルカナ船だな」
「それがどうした」
ベルカナでは、船を漕ぐのは鎖につながれた奴隷の仕事だ。
船籍が舟型で容易に知れるように、赤毛は少年の考えを、表情一つで読み取れる。
「ダメだ」
「戻せイェーラ」
「ダメだ」
「戻せ!」
楷をむしり取ろうとする少年を、今度も赤毛は蹴り倒した。
「いい加減にしろ! 仲間を捨てて逃げる最中に敵の奴隷を救うのか!?
お前の手足がなくなりでもすりゃ、国王陛下にどんな申し開きができるんだ!」
少年は笑った。先程の大男そっくりに。
「誇れ。お前たちが俺を臆病者に育てなかった証だってな」
余計なところで似やがって。
赤毛は舌打ちする。
「何の寝言だ。大体奴隷たちを解放したところでどうなる。
あの船は沈むんだ。ろくな扱いも受けてない奴隷たちが、港まで泳げるとでも思うか?」
「それは俺たちも同じだろ? こんな葉っぱ同然の小舟で。
それも進行方向は北北西、風も潮も真西からだぞ?
足の速いエルーニャ号でも、何度も間切れば3センク(6時間)かかる距離だ。
無事に行き着ける保証がどこにある?
幸いあれぐらいの船なら奴隷は300ってところだろ。
もともと上がりが必要な航海じゃないし、底荷を捨てれば乗れない人数じゃない。
それなら海峡を泳ぐ体力はなくても、海賊どもへの恨みならたっぷりある連中を解放して、
船に乗せてやると言えばいろいろ解決するんじゃないのか?
俺たちがやるのは見張りの2~3人だけ。
海賊どもの首を取るのは奴隷たち。多勢に無勢が解決すれば、誰の手足も
なくなりゃしない。だろ?」
赤毛が大げさに息をつく。
「…よく回る口だぜ」
「そんな俺が大好きだろ」
そうして赤毛は、楷を少年に託した。



かつて世界は三度(みたび)滅びぬ。
第一の世界は火に覆われ、その灰の上に第二の世界は生まれたり。
第二の世界は土に埋もれ、新たな地の上に第三の世界は築かれぬ。
第三の世界は水に沈み、残されし地を第四の世界として人々は住めり。
第四の世界は風の中の滅ぶだろう。やがて来るべき第五の世界のために。
<中略>
わけても、古のオーミよ。黄金の太陽に護られし至上の王国よ。
汝がもとに神は栄え、神あるところに汝は栄えむ。
死にゆく神のその足元、ひとたび北海に沈むとも、汝、再び甦らん。
汝が命は、永遠なり。
          <ソレイ島碑文より>



季節は春。花々もこぞって咲き揃う、春の中の春だった。
「おはよう、オースィラ、ソウェル。」
月神殿(げっしんでん)と呼ばれる荘厳な神殿の一室。
侍従がかしこまって開いたその扉から、幼い姉弟が嬉しそうに両親のそばへ走り寄る。
「おはようございます!」
朝食の席に二人を迎える父の名はアルギス。
精悍な額の下に鷲の眼を埋め込み、際立った鼻梁が公正さを、厚い唇が情を思わせる。

“至上”を意味する古語で名付けられた島国オーミ。
自ら太陽神ユマラの子を名乗って一神教を起した初代国王ナシズは、
良質な黄金をはじめとする豊かな地下資源の活用で、
その後一千年の繁栄を誇る王国の礎を築いた。

ミュゼファン王朝第84代国王アルギスは、
面積約37万平方キロの国土と、四百万の民を統べる、王国の生き神である。
「まぁソウェル、まだ欠伸をしてるのね。だめよ。今日のような特別な日は、
少し早く起きておかなくてはね。」
まもなく5歳になる弟王子の小さな手を侍女から引き継いだ、母の名はアサ。
王国一の美姫と呼ばれた神官の娘は、蜜色の髪と淡青の瞳をもち、
神の花嫁にして二児の母となった今も、少女のままに瑞々しい。
そのたおやかな仕草も、優しい表情も、今日はことさら輝いて見える。
それというのも今日、彼らの長男が13歳の誕生日を迎えるのだ。

8年前の今日、まだ5歳だった長男ライゾに、巫女の神託が下った。
神殿のうちにて育てば、13の年までに死病を罹す、というものだ。
これを受けた父王の決定により、王子は両親から離れ、再び託宣が下る日まで
神殿に帰ることも、家族に会うこともできなくなってしまったのだ。
13歳の誕生日は、泣く泣く手放した王子が、晴れて帰参する日だった。

「兄上はいつお着きですか?」
先月10歳になったばかりの長女オースィラに、兄の記憶はない。
けれど父も母もとても嬉しそうなので、つられて気持ちが高揚していた。
「まだですよ。上陸は昨日だったとしても、港からここまでは半日かかりますからね。」
アサはそれを自分にも言い聞かせた。
「ではお昼に太陽殿に?」
山を丸ごと三分割して建てられた壮大な神殿は、執務の太陽殿、国王夫妻の月神殿、
子供たちの瑤神殿(ようしんでん)と、使い分けられている。
そして王女にとって家族行事とは、太陽殿の大広間で、大勢の神官や執政官の立会いの下に
行われるものだった。
「いいえ、オースィラ。兄上はとても遠くから帰ってくるのですよ。きっととても疲れているわ。
そんな時に大勢で取り囲んでは、もっと疲れてしまうでしょう?
だから今日はわたくしたちだけで会うことにしたの。」
巫女の占いに定められた場所は、船の上だった。
おそらく疲弊し、汚れているであろう帰参直後の身なりや様子を衆人に晒しては、
王族の沽券に関わるとの配慮であった。

「失礼いたします、陛下。こちらを。」
家族の様子を見守るアルギスに、侍従が折りたたんだ紙を差し出した。
一瞬、鼓動がひとつ、大きく打つ。
<ご乗船沈没、ライゾ王子、イングス船長、ヤヴンハール・イェーラ、以下85名が行方不明。
現在総員で捜索中。エギル副総督ヒュレブ>
汚れた紙と走り書き同然の文字が、急場を語る。
アルギスは、紙を両手ごと食卓に叩きつけた。
急な音に驚いて幼いソウェルがぐずり出すと、気を利かせた侍女が姉弟を部屋から連れ出した。
みるみる青ざめる夫の表情に、アサが慌てて手元の紙を引き寄せる。
「…まさか」
アルギスは侍従に続報を頼んで退出させた。
「嘘よ、まさか、信じないわ」
王妃の淡青の瞳から、見る間に涙があふれ出す。
「アルギス、アルギス、嫌です…こんな、こんなこと」
アサは苦り切ったアルギスの手を掴んで訴える。
「ひどいわ! 8年も、8年も会えずに、こんな、あんまりです
だから反対したのよ! 無理だと言ったではありませんか
あんな小さい子を海へ行かせるなんて!」
答えないアルギスの手をアサは揺すった。
「教えてください、今度こそ。ソレイの巫女は、いったい誰」
国中にその名を知らない者はなく、その顔を知る者はない稀代の予言者。
けれど子を奪われた母親にとっては魔女でしかない。
「永遠に死なない奇跡の巫女姫? 大王ナシズを導いた? 信じないわ
答えて、その名を継いでいるのは誰? わたくしからあの子を奪った女は、どこにいるの!」
ただ唇を噛む夫に、アサは号泣した。
言わないのではない、言えないのだ。
ソレイ島の黄金神殿に住み、永遠の命を紡ぐ伝説の巫女。
国王以外と会うことはない予言者の神託が、かつて一度でも外れたことがあったなら、
アルギスも息子を手放しはしなかった。
そう、外れたことはない。
ならばまだ、息子には時間が残されているはずだ。
「アサ、私はあきらめない。ライゾは必ず戻ってきます。私たちの元へ。」
そうだ。目が見えなくても、歩けなくてもかまわない。
ただ生きて帰ってきてさえくれるなら。
もはや体面などにこだわってはいられない。
アルギスは、各港の守備隊総動員での、長男ライゾの捜索を命じた。



つづきます。


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早暁の子(黄金の太陽2回目)

テーマ:ライトノベル - ジャンル:小説・文学

太陽殿、月神殿、瑤神殿。
3つの神殿は、地上の渡り廊下以外にも、それぞれがフラールと呼ばれる地下通路で
結ばれている。
神殿が建っている山の地下を碁盤の目に通る、狭く暗い通路に
王妃アサが踏み入ることは滅多にない。
けれど今日は、それが必要だった。
長男ライゾを乗せた船が、港から6ゼッド(1ゼッド=1.3km)沖で沈没したと
聞いてから3日目の夕刻。
捜索隊からは知らせのないまま、突然に王子本人が帰ったというのだ。
耳を疑いながら太陽殿へ急ぐアサを、先導する女官も息を切らせている。
「王后陛下、ご到着!」
大きく開かれた両開きの扉の中は、人で溢れ、ざわめいていた。
女官が張り上げた到着の声に、かしこまって道が開かれる。
その先にひとりの少年が立っていた。
豊かに波打つ黄金の髪。海を映した紺碧の瞳。日に焼けた肌と伸びやかな四肢。
白いレーニ(短衣)をまとい、深緑の帯に長剣をさした、
輝くような美少年だ。
ひと目でわかる、彼女によく似たその面差し。
「ライゾ」
アサは倒れ込むように抱きしめる。
「ライゾ、ライゾ、無事で、ライゾ」
華奢な腕に息も詰まるほど抱きしめられ、王子の中で、記憶の中の母の面影が
目の前の人と重なる。
「ただいま、戻りました。」
どの港に寄港しても、上陸許可も降りなかった8年間。
たくさんの仲間と暮らし、不満は感じていなかった。
けれどこうして細い腕の中、自分もまた飢えていたのだと知る。
「母、上」
「ライゾ、ユマラよ、船が沈んだというのは間違いだったのですね。
ライゾ、まぁ、こんなに日に焼けて、もうわたくしよりも大きくなって」
王子の顔を両手で包み、見つめる王妃の声は涙に震え、かすれていた。
王子も思わず涙ぐみ、鼻をすすりながら答える。
「いいえ、間違いではありません。船は沈みました。」
アサが驚いて、濡れた瞳を瞬かせた。
「ま、ぁ、ライゾ、では、どうして」
「泳ぎました。」
「泳い、で?」
母が何を不思議がっているのか、王子にはよくわからない。
船が沈んだなら、陸を目指して泳ぐのが普通だろう。冷たい春の海で
じっとして溺れるわけにはいかないのだから。
「ライゾ、まぁ、6ゼッドも、どうして」
それでようやく分かった。6ゼッドは、彼女にはとても遠いのだろう。
「5~6ゼッドなんて、宿屋の女将にも泳げましょう。
その3倍泳いだこともありますよ。」
さすがにそのときは死にかけたが、それは黙っていたほうがよさそうだ。
ひと足先に再会の抱擁を済ませ、二人を見守っていた父アルギスも、
王子の言葉で喜びの涙も止まるほど驚いているようだ。
なんと逞しく育ってくれたことか。
「潮に流されたので、目的通りエギルの港に上がれず帰還が遅れました。」
にもかかわらず、疲れた表情さえ見せない。
息子の成長は、父に新たな涙を流させるほど誇らしかった。
その功労者を、称えずにはいられない。
アルギスは、黙って後ろに控える赤毛の女を招いた。
女は両手首を交差させて手のひらを胸に置く、神前の最敬礼で国王に跪く。
その手の甲には、彼女の異名の由来である、三本足の赤鷲の刺青が見える。
「イェーラ、8年の長きにわたる尽力に心から感謝します。
ありがとう。おかげで息子は生きて今日ここにいる。これほど逞しく立っている。
本当に、ありがとう。
今をもって正式に、息子ライゾのヤヴンハールに任じ、イングスとともに
太陽殿付き神官の位を、同船の水夫たちにも報奨金を授けます。
受けてください。」
「謹んで、お受けいたします。」
国王が与える神官の位には、家と年金が付くのが通例である。
周りを囲む執政官や女官・侍従も、祝福の拍手をおくった。

海軍を持たない島国オーミでは、海賊団を自警団として丸ごと雇い入れ、
商船の護衛や港の守備に当たらせている。
職業海賊が構成する自警団は、下手な軍より統率も手際も良く、しかも安上がりだ。
彼らに各港町での家を与え、縄張り意識を持たせることで国内での無法を防ぎ、
特定国の船への海賊行為を承認して、オーミの海を守る義務と権利を与えたのだ。
今では海賊団の長たちは、オーミにある五つの港の総督として、
それぞれに港の管理を任されている。
中でも国内最大の港、南のエギルを預かるイングスは、海の英雄の呼び声も高い
全海賊団の総代表であり、歴代最高の海賊長と言われる男である。

また赤毛のイェーラは、西のブーイを預かる提督エルストラと並び、
ただ二人だけの女海賊だ。
海賊の身分はあくまで奴隷兵士だが、王子が無事帰還のあかつきには、その一の従者
ヤヴンハールとして、聖職者の位を約束された女だった。
王族には一人に対して一人、ヤヴンハール(同じように高きもの)と呼ばれる従者が仕える。
彼らは王族の二つ目の命とも呼ばれ、終身雇用を基本とし、
死亡の折にも後任は存在しない。

この場にいないイングスに、使者が届けるアルギスからの返礼は
海賊長引退後の生活の保証であり、
イェーラにとっては、離れがたい絆で結ばれた、若い王子を見守れる地位。
そして生き神に認められる喜びだった。

8年前、五歳のライゾに下った神託。
“八十四番目は黄金の太陽を抱き子をなせぬものである。その者、
神殿のうちにて育てば十三までに死病を罹し、外にて育てば十七の年に自刎する。”
幼いわが子に負わせるには、あまりに重い予言。
アルギスは全てを告げることができず、前後を省いた一部だけを彼らに話し、
息子を海へ、神殿のうちでも外でもない場所へ、送り出した。
せめてもの願いを込めて、海の英雄イングスを代父に指名し、
優しく強い女海賊イェーラをヤヴンハールに指名したが、
危険は何一つ去ってはくれないと知っていた。
嵐、敵海賊、飢餓、疾病。凪ぎの海に落ちても命が危うい幼子を送り出し、
どれほどの思いでこの日を待ったことか。

『余は誇らかな喜びと大いなる希望をもって、
我が子ライゾ・ミュゼファンを次期国王に指名し、
次の満月にその立太子式を執り行うことをここに宣言する。
王太子は余と同じく民に忠誠を誓い、ともに生きることを願う
ものであると、そなたらに宣する喜びを、余は禁じ得ない。
よって立太子式においては、太陽殿野外祭儀場を開放し、
酒食の振る舞いを授け、良き日の祝福を分かち合わんと願う。』
触書は国中に走った。



つづきます。


1章 早暁の子 |トラックバック(0) |コメント(0)

早暁の子(黄金の太陽3回目)

テーマ:ライトノベル - ジャンル:小説・文学

ピナが明るく話しかける。
「殿下がおいでになったお部屋は、全てそのままでございます。」
太陽殿の裏門から続く瑤神殿の正門へ、屋根つきの渡り廊下を先導するのは、
先ほど父から紹介されたばかりの教育係にして、将来の女官長ピナと、侍従長ハルバだ。
後ろに従うのは、ライゾが登極の折には側近となるべき近習の少年たち三人。
「家具類は全て以前より大きく、同じ意匠で作り直しておりますよ。」
ピナというのは彼らが主食とする芋の名前でもあるのだが、ほっこりとした
彼女の笑顔とふくよかな体は、それに似つかわしい。
「調度類も変わりませんので、きっとお懐かしくご覧になれますわ。」
改めて見えてくると、瑤神殿の正門には双頭の鷹が刻まれている。
ライゾが生まれた日、父から授けられた個人紋章だ。
「ただお衣装は新調しなくてはなりませんわね。お見受けしたところ殿下のご体格は
十五・六歳ほどですから、用意しておりましたものはどれもお小さいでしょう。
衣装部屋の全てを入れ替えるにはひと月ほどかかりましょうが、
何卒ご辛抱くださいませね。お色のお好みは?」
生返事でうろ覚えの長い廊下を歩きながら、ライゾは記憶をたぐる。
上陸し、エギルの港からランドール街道を通って王都グリームニルへ。
ヴェグタム湖を左手に見ながら市街地を抜け、アトリ四神山へ。
神殿がある山と、聖湖アトリを戴く山。連なるあと二つの嶺は何があったか、
おいおい思い出すだろう。
「殿下のお帰りである。」
門番に告げる、つんとすました初老のハルバは、横顔が海鳥に似ていると
ライゾは思った。
瑤神殿は、正門を開くと正面に庭園とH型の建物があり、その裏側の
右手に厩舎、左手に使用人棟。その間に馬場と運動場が設備されている。
そういえば厩舎の壁は、ライゾお気に入りの落書き板だった。
門を抜け、建物の正面扉が開かれた途端、ライゾとイェーラが目を丸くする。
三十人ほどの使用人たちが、居並び彼らを迎えていた。
一斉に頭を垂れる彼らに、顔を見合わせて立ち止まる。
「か、彼らは?」
ハルバがその背中のように、ぴしっと伸びた口調で言う。
「瑤神殿に仕える主だった使用人たちです。幸運にも殿下のご帰還をお迎えする
栄に浴しましたのは五分の一以下に過ぎませんが。」
「てことは全部で150人以上いるのか!?
そんな大勢で毎日何をするんだ!?」
王族の感覚からすればずれた質問だったが、ハルバは立て板に水で答える。
「殿下がたにお仕えしますのはまず侍従が三人、女官が三人、侍女が三人で、
女官の仕事はお手紙やご来賓の取り次ぎご案内、ご公務やご勉学の
ご予定の調整、お出かけの手配など表向きのものを取り計らいます。
侍女や侍従は、お食事の内容の管理やお衣装の選定、武具や衣装部屋など
殿下の私物管理、ご入浴及びご不浄の手伝い、お部屋の整理や清掃の指示など
内向きのことを計らいます。
それら九名のもと、実務にあたる小間使い、召使いがそれぞれ八人と、
各部屋付きの者が一名ずつ。ただし貴人のお体に直接触れる御用には
平民以上の出身である侍女と侍従をお召しくださいますよう。
あとは料理人と洗濯人がそれぞれ二十名ずつ。彼らは瑤神殿にお仕えする
全員の世話を引き受けております。
これに神殿の衛兵隊から交代で毎日三十人が出向して加わり、総勢
156名が瑤神殿にお仕えする者たちでございます。」
一息に聞かされたなかに、どうしても聞捨てならないものがある。
「ちょっと待て。今、ご不浄の手伝いと聞こえたが?」
「御意にございます。」
きっぱりと答えられてしまう。
「手伝いって!? 一体何を手伝うんだ!?」
ハルバの片眉が、ぴくりと動く。
まさか玄関でこんな話をするとは思わなかったが、これは用の足し方から
説明せねばなるまい。
「ご不浄と呼ばれるのは陶器製の箱でございます。
上部に穴があいており、まずはこれに腰掛けて用を足していただきます。
済みましたら箱の側面の蓋を開け、受け皿を取り出し、噴出式の水差しを
入れて蓋を閉じます。洗い終われば布でお拭きいたします。」
「嫌だ。断固断る。」
「困りましたな。お体の清めに自らの手を汚されるのは
はしたないとされておりますが。」
「他人にケツを拭いてもらうのが上品だとでも!?」
「ふむ。それはサロワ・イェーラもですかな?」
「私もか!?」
高みの見物を決め込んでいたイェーラも、ヤヴンハール独特の敬称で
水を向けられ焦り始める。
「同じように高きお方、なれば当然ですわ。私がお世話を。」
ピナの笑顔に二人はぶんぶん首を振った。
「勘弁してくれ」
「仕方がありませんな。それでは当分の間はご不浄をお運びするだけに
留めましょう。」
「運ぶって。頼むから。なぁ、他の使用人は皆どうしてるんだ?」
「神殿内に専用の小部屋があります。調理場や洗濯室の排水が流れる溝の上に、
穴あき椅子を並べて作りつけたものでございます。」
「なら俺もそこで」
「なりません。」
きっぱりと否定され、落とした肩をイェーラが叩く。
「諦めろ。」
ライゾが目を剥いて振り返る。
「い、いいのか!?」
「かみ合わないなら歩み寄るしかないだろ。どうしても運びたいなら、
運んでいただくさ。少なくとも、最中に海へ落ちる心配はないぞ。」
いつでもイェーラは男より男らしい。深いため息をついたライゾを
ピナが慰める。
「用の足し方なんて、すぐに慣れますわ。さ、参りましょう。」
「信じられない。本当に5歳までそうだったのか?」
磨きあげられた床。廊下に一定間隔で並ぶ壁龕にすえられた、黄金の枝付き燭台。
用足しのことだけではない。目に入る全てがあまりに豪奢で、
かつて自分がいたとは思えない。
ピナやハルバ、優雅にかしずく使用人たちの、さらさらと滑るような所作も、
自分などよりよほど、この神殿にきれいに収まって見える。
実のところ、母上、父上、などという呼び名も、口になじまない。
なにしろこれまでは、うちのおやじ、だの、俺んとこのかかぁ、だのという
言葉しか聞こえない場所で暮らしていたのだ。
どことなく居心地の悪い気分で、居室に向けて進んでいると、前方に
水盤を持った若い小間使いが、壁に背を寄せて控えているのが見えた。
水盤は少量だが水が入っており、石でできている。
彼女の細い手にはかなり重そうな上、自分に叩頭させているのが気の毒で、
通り際ライゾは何の気なく彼女に向かって手を伸ばした。
「かせよ、運んでやる」
すると彼女が息を詰めて飛び退き、弾みで水盤が落下する。
「お、おっと」
石なので落としても壊れはしないが、当たったらかなり痛そうだ。
「悪い。大丈夫か?」
問いかけても彼女は、青ざめて震えるだけで答えない。
「足だよ。当たってないか? ほら、動かしてみろ。」
ライゾの手が触れた途端、彼女が短い悲鳴を上げた。
「ん? ああ、そうか」
ややしてライぞは気づいた。気づいたつもりだった。
「イェーラ、肩布かせ」
こぼれた水で濡れた布が張り付いて、彼女のすんなりとした大腿が透けてしまっている。
「ん。ほら」
イェーラが着けていた長めの肩布で彼女の腰を覆うと、ライゾは自分の短い肩布で
手早く床の水を拭き取った。
「着替えはあるのか?」
彼女を見上げて聞いた時、廊下の先から男の声がした。
「ティイ! 何ということを!」
小走りで来た小太りの中年男が、彼女に向かって手に持った棒を振り下ろす。
「え、おい待て!」
咄嗟にライぞは左腰に帯びた剣を左手で鞘ごと引き上げ、柄頭で棒の柄を
下から突き上げた。
男の手からすっぽり抜け、空中に舞った棒を右手でつかみ取り、そのまま
ライゾは男に向けて振り下ろす。
「殿下!」
「なりません!」
ピナとハルバが慌てて静止するまでもなく、棒は男の目の前でぴたりと止まった。
男がその場にへなへなと座り込む。
ライゾは取り上げた棒を改めて見る。
「なんだこれ。動物の角?の指揮杖か?こんなもんでいきなり女殴るって。
何だおまえ」
魚のように口を開閉するだけの男に代わってハルバが説明する。
「殿下、その者はケイフと申す殿下の侍従の一人でございます。
殿下の無体を、呆気にとられたとはいえお止めできなかった我らにも非はございますが、
粗相をした奴隷を打擲するのは侍従の役目にございますれば。」
「無体? 何が? 粗相? 水盤を落としたからか?」
「御意にございます。殿下の御前に水盤を落としましたことも、おみ足を濡らし
お手を煩わせましたことも、大変な粗相と言わねばなりますまい。
もしこの上殿下にお怪我でもあったれば、打擲ごときではすみませぬ。」
信じられない。酔って娼婦に手をあげてさえ、宿屋の用心棒にのされるものを。
「わからないな。クソたれた他人のケツまで拭いてやろうって奇特な御仁が
なんでキレイな女の子が水こぼしたってぐらいで目くじら立てるんだ?」
「他人ではございません。侍従は殿下のしもべでございます。」
イェーラが軽く笑う。
「なんの。おまえのケツならぜひ舐めてぇって奇特な御仁もいたろうよ。」
「このっ…!」
「おっと、そんなもんで女殴ろうってのか?」
振り上げた指揮杖をいとも簡単によけたイェーラの、襟をつかんでライゾが顔を寄せる。
「誰のおかげでしたかねぇ、あんな奴隷市に突っ込みやがって、おかげで危うく」
イェーラは今度もかかと笑う。
「ちゃんと助けに行ったろ、無事に花御殿からも抜け出せて」
「おま、えっ」
ライゾは舌打ちを漏らしたあと、ふーっと大きく息をつき、ハルバに向き直った。
「ここは俺の家で、俺の侍従は他人じゃないんだな?」
「御意にございます。」
「よし。ならこいつに二度とこの棒を持たせるな。他にも持ってる奴がいるなら
それも禁止だ。それで何か問題が起こるなら俺に言え。言い分を聞いて納得できなきゃ
俺が自分で殴る。」
「…御意のままに。」
ついでライゾは床に座り込んだままのケイフに言う。
「おまえは俺のしもべか?」
ならば従えと言われるのだろう。ケイフにしてみれば自分の半分にも満たない年の子供。
しかも庶民のように雑な身なりと言葉遣い。雑な思考で快適な職場を乱す異分子だが、
身分は身分だ。諦めて頭を下げるしかない。
「御意にございます。」
「ならおまえを守るのも俺の仕事のうちだな。
漕ぎ手に嫌われる船長の船は遅いというのを知ってるか?
おまえが俺のしもべなら、なるべく守りやすくしててくれ。
言っとくけど、次やったら神殿から放り出すぞ」

オーミの身分制度は5段階で、上から王族、聖職者、執政官ほか行政関係、平民、
奴隷である。
けれど金持ちの家の奴隷の方が、貧しい平民より良い暮らしをしていることもあると
ライゾは知っていた。聖職者に仕える奴隷たちがどんな選民意識を持っているか。
そのために職業として奴隷の身分を選ぶ者がいることも。
それゆえライゾにとって身分はただの名前であり、職種に過ぎない。
ティイや後ろに控える近習の少年たちが一言も話さない理由も、ライゾは今思い出した。
奴隷が王族に直接口を聞いてはならないなど、全くもって無意味だ。
「それから、今このときから、瑤神殿では誰が誰に話しかけても構わない。
俺に限っては触れることも許す。
と、いうわけで、ティイ?」
ライゾは彼女の手を取って立ち上がらせた。
「戻ったそうそう驚かせて悪かった。こいつのことも謝る。
二度とさせないから、許してくれるか?」
ティイは恐縮して顔を伏せる。
「ゆ、許すなどと、畏れ多ございます」
「早く着替えたほうがいい。」
手を引いて促され、退出の許可がでたとみたティイは、慌てて水盤を拾い上げ
立ち去った。
「腐った水と人の恨みは後でじわじわ効いてくる。イングスの教えだ。
優しいコでよかったなケイフ、恨まれずにすんだぞ。」



つづきます。


1章 早暁の子 |トラックバック(0) |コメント(0)

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シカピ

Author:シカピ
数年前、とある美声にひと耳惚れし、
そのまま声フェチに、そして
ヤンデレに行き着きました。
同じ道を通った人、いますか?

真冬以外は年中花粉症です。

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